終わりなき「自分磨き」は、現代の奴隷労働にほかならない 2018/9/20 「アートで町おこし」には“無用なもの”を排除する欲望が潜んでいる 2018/9/21
2018.09.20
終わりなき「自分磨き」は、現代の奴隷労働にほかならない
現代日本のアナキストかく語りきつねに「有用性」を求められる社会
誰かのためにならないといけない。社会にとって役に立つ人間でないといけない。会社にとって有用でなければいけない。現代社会では、誰もが絶えずそう求められています。
働いて「社会に貢献したい」と、誰かの役に立つために毎日「自分磨き」をしたり、資格を身に着けたり、休みの日にも、SNSでもみんなに受けのいいツイートをして、「いいね!」を貰おうとしたり、「インスタ映え」を狙ってみたりと。
とにかく、「役に立たなければ」「評価される人間であらねば」という思いに縛られている。まるで奴隷のように。

でも、それって本当にそれほど大切なことなのか?疑問に思いませんか? 人間なら「何もしないでたらふく食べたい」と思うのが普通ですよね。
『何ものにも縛られないための政治学――権力の脱構成』で紹介したドイツの哲学者、マックス・シュティルナー(1806‐1856年)は、100年以上も前にその疑問に答えています。かれは、いまいった問題について、「人道的自由主義」という言葉で批判をしています。
ちょっと堅苦しい言葉ですが、まさに現代のことを表していると思うんです。
シュティルナーによれば、私たちが「自由」を獲得してきた歴史は、支配から自由になる、でもその自由を保障するために、あたらしい制度をつくって、その制度に支配されること。それは以下のような段階をたどってきました。
(1)政治的自由主義 カネによる支配
君主政から自由になり、ブルジョア‐労働者のカネの関係へ(自由主義)
(2)社会的自由主義 社会による支配
ブルジョア(資本家)が労働者の自由を奪うことを止めさせようとした。労働者は社会に義務を負い奉仕する(共産主義に近い)
(3)人道的自由主義 人間的なものによる支配
非人道的な労働から自由になり、人間らしい個性を活かした労働をする。自分のやりたいことを労働とする(自己実現のための労働)
この人道的自由主義は、現在のことをまさに言っている――私ははじめてシュティルナーを読んだ時に、そう思ったんです。
人は奴隷みたいな隷属関係や、カネに縛られる状況から解放されて自由を得ようとしたけれど、労働からは逃れられない。それなら、ご主人様やカネのためではなく、自分のやりたい、「やりがい」のある仕事をしようと、「人間らしい働き方」という自由にいきついた。それが人道的自由主義だというんですね。
シュティルナーの時代では文筆家や芸術家のような仕事でしたが、いまでいうと「クリエイティブ」な仕事、「〇〇プロデューサー」や「××クリエイター」といったカタカナがつくような仕事が、人道的な仕事としてイメージしやすい。
でも、現代ではこうした仕事に限らず、どんな仕事でも人道的自由主義の側面を持っているのかもしれません。
工場で働いていたって、日々、「カイゼン」をしてあなたのクリエイティビティを反映させましょうとか、どんな仕事でもあなたの「個性」と「コミュニケーション」が大事ですとか、いち社員にもアントレプレナーシップ(起業家精神)が必要ですとか。なんでも「自己実現」に結び付けられている世の中ですからね。
でも、一見美しく見えるこの人道的自由主義を、シュティルナーは否定します。なぜなら、いくら労働を人間的にしたところで、労働とはなにかに縛られること。さらに酷いのは、やりがいのための自分磨きはいつまでも終わりがない。毎日、毎分、毎秒、自分磨きをし続けなければいけない。それができなければ、創造性がない、人間的でないと言われてしまうわけですから。
つねによりよくなれ、成長し続けろというプレッシャーを感じ続ける社会。そんなことを繰り返していたら、心や体を壊してしまう。それって、本当に人間的なのか。逆に、人道的なものに縛られているだけではないのか――人道的自由主義とは、新しい奴隷制なのではないかと、シュティルナーは当時から指摘していました。
もしかすると、今こそ人道的自由主義全盛の時代と言えるのではないでしょうか。
例えばサービス業でいうと、低賃金でもお客様のために笑顔でいましょうなどと、「やりがい」を搾取されている。アーティストのような一部の創造性が必要な仕事やエリートだけではなく、普通の人でも「人間なら」「社会のためなら」という考え方に縛られている。

非正規雇用が激増して、どんな企業で働いてもいつクビになるか分からない時代なのに、人のために、社会のためにと頑張っている。高度成長期のような、大企業や国に支えられつつ、マンネリをこなしていればいいという働き方からは変わってきているのは良いことに見えているのかもしれませんが、シュティルナーからすれば、社会的自由主義から人道的自由主義になっただけ。
「生産性」の奴隷になる
何が今の社会を支配しているかと言えば、社会にとって有用でなければいけない、「生産性」がなければ生きていてはいけない、という考え方です。いつのまにか、それが当たり前になってしまいました。
私がこの本を書きはじめたころに、「相模原障害者施設殺傷事件」がありました。植松聖被告は事件直後、ツイッターで「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」とつぶやいています。
供述からもわかるとおり、美しい国のために役に立つ人間だけがいていいんだ、役に立たない人間は殺していいんだ、と考えていた。そんな考え方が、メディアを通して報じられるのをみて恐怖を覚えました。
植松はもともと障害者施設で働いていた。うまくいかずに無職になり、おそらく本人も経済の論理の中で自分が「役に立たない」というプレッシャーを感じていたのだと思います。だから、より「自分より役に立たない」と思う人を殺すことで、自分は役に立たない人間ではないと思い込もうとした。そういう社会的な承認を求める気持ちが、過剰になった。
もちろんこれは極端な例です。けれども、自分が役に立たないと認めたくないから、より「社会的に有用ではない人」を勝手に見つけて叩くという精神が、一般の人たちにまで、身体レベルで染み付いているのは確かです。
2000年代前半には、一部のエリートがいい出したことだと思っていた自己責任論も、今はむしろ貧しい人たちが内面化してしまっているように思います。
定職を持って家庭を持つのが当たり前で、それが大人の社会人なんだ。そういう「生産性」が必要だ。僕は37歳まで実家に住んでいて、いまのように自著を出すでもなくアナキズムの本をひたすら読んでいて、大学に職もない、という暮らしをしていました。付き合っていた彼女に何度も「死ね」と言われたものです(笑)。
労働環境は、男以上に女性のほうが厳しい。結婚をすると辞めるんでしょ、出産・育休で仕事に穴を開けるんでしょ、と言われてしまう。経済の「生産性」を持ち出されて、男より下に扱われる。そんな生産性に縛られているから、東京医科大学の受験で、男子が優遇されるなんて問題が生まれてしまうんだと思うんです。
生産性とか、有用性とか、社会の中で役目を果たさないと、とみんな思わされていますが、人間なんて、ご飯を食べて寝て、セックスするくらいで、何もしないのが本当は自然でしょう。何もしたくない。それが、いまは例えば家でダラダラしていると罪悪感を覚えてしまう。僕なんかは一日家でYou Tubeみたり、開き直っていますけれど
「勝ち組」だって転落する
僕は79年生まれで、就職氷河期に大学生だったため、2000年代前半の小泉政権期。自己責任論が大手を振るっていた時代を目の当たりにしています。当時の就活は、外資の証券か銀行、国内なら大手の証券か都市銀行、ないしは大メーカーでないと「負け組」という感じでした。
でも、今見ると「勝ち組」にいった人でも、うまくいっていない人がとても多い。例えば、ある外資系IT企業に就職した同期は、海外とのやり取りのために生活リズムが崩れ、体を悪くしたところ、「業績が上がらなくなったから」とクビを告げられ、荷物をまとめられ、警備員に連れられる同僚を目にしていました。
その友だちが飲み会で大荒れしていることもありました。気づいたらかれは会社を辞めて、インドで放浪の旅をしていました。でもインドの先端IT企業で働き始めたらうまくいって、その後はゆるりと働いています。
考えてみれば、僕は学生時代、友人たちに「自己責任論なんてクソだ」と言ったら、「お前が糞だ」なんて返されていたんですが、いま彼らと話すと、けっこう多くの友人が「すごくわかる」って言うんです。
「生産性」の話でいうと、「LGBTには『生産性』がない」という、杉田水脈のような議員もいます。一昔前に、子供ができない女性に向けられていた「役に立たない」という考えを、こんどはLGBTの人たちに向けている。社会の役に立たない人間は必要ないという発想が、まさか議員の口から出てしまっている。これを一般化させないためにも、きちんとお灸をすえないといけません。
ネットにも同じ空気が漂う
インターネットにも、「有用であらねば」という息苦しさが蔓延しています。
2000年代のはじめまで、インターネットはすごく可能性を感じさせるものでした。文章を書いて発信するのも、調べ物も、本当に好き勝手に自由にできる時代がきたと思いました。でも、それはSNSが隆盛するにつれ、逆転していきました。つまり、双方向であることが世の中を悪くしていった。コミュニケーションに明確な「目的」ができたことで、あなたの応答が「有用であるか」が大事になってしまったのです。
「いいね!」がいくつ付いたか、何リツイートされたか。そればかりが大事になって、誰かがいいつぶやきをしたなら、もっといいつぶやきを……と際限なく評価を求めていって、そこに加われない人は障害物とみなされてしまう。
生身の人間が向かい合うおしゃべりって、目的はなかったりしますよね。学生時代に勉強会を開いて「ヘーゲルを読もう」といったところで、誰も読めないわけで(苦笑)。
でも、おしゃべりそのものは楽しかったとか、本を読むのっておもしれえなといったことが生まれる。また、一緒に議論した友人と信頼関係ができたり、その友人がこんなことを言うのかなどと思わぬ一面に気づいたりもする。目的がないからこそ、予期していなかったことに出会えたりするんです。
ところが今のSNSはそうなってはいない。どれだけわかりやすい回答をだせたか、コメントでいくらうまいことを言えるのか、という世界になっています。SNSで何の反応がないのも寂しいですから、自然と有用なことをつぶやこうとしてしまい、有用さの回路に誰もが巻き込まれてしまうんですね。
その意味では、仕事も同じです。どれだけ業績をあげて周りに評価されるか。昔からそうかもしれませんが、仕事に個性ややりがいを導入した結果、なぜかより「有用性」に縛られるようになったように感じます。
それは「休み方」にも侵食していて、いい余暇を取らないといけなくなっている。休みの日に何をしてるの? と聞かれると、「そりゃ休んでいるよ」と言えればいいのに、SNS映えするような「こんないい余暇を過ごした」と見せないといけない。一日寝ていたっていいはずなのに、音楽好きでもないのにフェスに行ったり、シネフィルでもないのに単館映画に行ったり、見栄えのするアクティビティをやったりと。どんどん余暇がなくなっている。
やはりおかしな世界だと思います。
<以下後編>
「アートで町おこし」には“無用なもの”を排除する欲望が潜んでいる
現代日本のアナキストかく語りき 後編
アートで町おこしへの違和感
前編でもお話した通り、私たちの社会は、「有用性がないもの」をどんどん排除する社会になっています。
それは「地方創生」、町おこしの現場でも起こっています。アートの力で町を再生しようという試みがブームになっていますが、そのアートは、猥雑なものを排除したり、覆い隠したりしている。

例えば、東京の山谷や大阪の釜ヶ崎といった寄せ場にいる、野宿者や日雇いの「おっさん」たちは本当に猥雑です。まえに山谷夏祭りというのに行ったことがあるのですが、みんなほんとうにクソみたいな酒を呑むんですよ。バケツにやっすい焼酎をドバドバ入れて、烏龍茶をテキトーに注いで、あ、これ2杯飲んだら死ぬな、と思うような。
そういう酒を飲んでいるおっさんたちが、すごい力をもっているんですよね。ブルーテントで生活ができている時点でもすごいことです。これは夏祭りのときじゃないんですが、道具なんてなくても、炊き出し用の薪を素手で割って、作ってるひともいたりしました。本当のDIYをやっている。私たちが一般社会で持ち込んでいる有用性とは違う有用性を持っていたり、あるいは本当に役に立たなかったりする。でも、それでいい世界です。
そういうところにアートを持ち込むとどうなるのか。アートで経済を活性化したいというのは、完全な善意だと思うんです。ところが、その結果訪れるのはインスタ好きなおしゃれな若者たち。そのためにアートで町をカラフルにしても、灰色のおっさんたちは、気持ち悪いとレッテルを貼られてしまって、排除されるしかない。
町に必要なのは、立ち小便しているような猥雑なおっさんたちを受け入れ、たとえ交流できなくてもいいじゃん、おもしろいじゃんって言える「余裕」だと思うんです。そんな社会の余裕が排除されていくと、どんどん息苦しくなっていく。
下町で飲む横丁女子とか、写ルンですで昭和レトロを撮るとか、実際にやると楽しいのかもしれません。しかし、それが猥雑さを壊してしまうこともある。
どこで手に入れたか分からない品を路上で売っている人がいたり、何の出汁かわからないラーメンの屋台があったりと、50年くらいまえなら当たり前にあったゴチャゴチャしたものが、どんどんキレイにされていっている。有用じゃないと考えるものを排除しているけれど、本当にそれが有用じゃないといえるのかなんて、わかりません。
弱者だと思われていた人たちが、弱者ゆえの戦い方で勝利して、新しいものが生まれてきた歴史があるのに、いま、目の前の有用性だけで何かを判断している。本当に大事なものが漏れ落ちてしまっている――それは愚かなことではないでしょうか。
人々は「怒れなく」なっている
キレイで破綻のない安全圏にいたいと思うようになってしまった。だから、怒りの声を上げることもできない。いま、怒りづらい社会になっていると感じます。悪いことに対して、うまくいっていないことに対してチクショーと叫ぶこと、怒って行動に出るのはとても大切なことです。
なぜなら、チクショーと怒った瞬間に、SNS的な世界の軛から解き放たれるからです。そういう一瞬をいかに作っていけるかが大事なんです。そういう怒りの声に仲間が集ったりする。すると、あっ、オレもやれるぞ、オレもオレもって自信になる。
もちろん、政治的な抗議活動をしたときには、警察にメタクソに怒られるかもしれませんが、それでもムチャクチャやれたぞっていう力の感覚、いま現にあるものから外れてもやっていけるという生身の手応え。それがなによりだいじなことじゃないかと。しかし、いまはその怒りすらも「生産性」に回収されてしまっていないでしょうか。この違和感も、『何ものにも縛られないための政治学』を書いた動機です。
もちろん、安倍政権は無茶苦茶ですよ。アナキストで法律なんてどうでもいいと思っている私ですら、改ざんやら安保の問題をはじめ、とことんヤバイと思う。そこにチクショーといって立ち上がるのは当然だと思うんです。けれど、その安倍政権に抗議する人たちが、自分たちのことを縛り始めている。

どういうことかというと、声を上げる時にいかに人数を集めて政治家にプレッシャーをかけるかといった、そんな「目的」が先に立っている。若者らしいカッコいいデモをすれば、一般の人も参加してくれる。そんな考えが先に立つ。
警察と揉めたりすると、メディアに危険だと言われるからそれは避けよう。よいプレッシャーをかけるためには、主催者のコールに合わせてみんなで同じコールをしましょう。平和な空間を作り上げてプレッシャーをかけましょう。
それって、すごくSNS的です。政権をdisるなら、キレイな言葉で効果的にと。でもそれじゃ意味がない。怒りっていうのは、そんなにキレイなものじゃなくて、心の底からチクショーと言って路上に出て馬鹿騒ぎをして、こんな世の中に従ってたまるかと身振り手振りする、そういう猥雑さが必ずあるはず。
なのに、すべてをコントロールしようとてしまって、運動の中で「どれだけ有用か」という世界になってしまっている。
私がタイトルに込めたのは、たとえいまの政権に批判的であっても、そのために自分で自分を縛りつけてしまっては意味がない、そういう政治にすら従わなくていいんだぞ、という思いです。本当に縛られない声を上げることが必要なんだと思います。チクショーって叫ばないと。有用性なんて知らない、生産性なんてないぞ!って抗わないと。いつまでも何かに縛られたままの世界は、クソです。
予測不可能なものを許せない社会でいいのか。
キレイでないものを排除しようということは、経済の論理です。それは同時に、予測不可能なものを極限まで排除しようとする考え方です。
近年のAIによる未来予測もその流れでしょうし、サイバネティックスといわれる、生物と機械の自動制御を考える理論もそうでしょう。しかし、それが大事なものを失わせてはいないでしょうか。
子供に「投資」をするという表現の怖さ
最近では、教育の世界にも経済の原理が忍び込んでいる。子供の未来すら予測して、どれくらい稼ぐのか、将来自分たちにとって子どもがいかに有用になるかを親が判断するような言説すらあります。
子供は、親の所有物でも、投資の対象でもありません。子供は究極のアナキストですから、子育てだってうまくいくはずがない。泣き止まない子供を前に戸惑って、自分もうろたえる。教科書通りの答えなんてないけれど、「この子に私は何ができるか」と考えることが、本当の意味での優しさです。
子育てをする20代から30、40代は、仕事でも経験が積み上がってきて、有能で仕事ができる自分を見出す年齢です。仕事を通して、目的を立ててそれに見合う結果を出すという生き方が出来上がっている反面、それに縛られる。それが、子供ができると取っ払われます。新しい生を子供と一緒に歩めるんです。
以前、無政府主義者であり、婦人解放活動家の伊藤野枝の評伝『村に火をつけ、白痴になれ』を書いたのですが、彼女はこんなことを言っています。
子供は所有物じゃない。女が子供を所有物だと思った瞬間に、もともと女は男の所有物だと言われてきたのと、同じことを繰り返してしまう。いったん、所有という感覚を捨てると、自分自身が子供に引き戻される。
子供は、わけのわからないことに無我夢中になって、誰に褒められるわけでもないのに木に登ったり騒いだりしている。それこそが力の成長なんだ、誰に褒められるわけでもないけど、何かができるようになる、そこに人間の生を感じる。私もそこに立ち戻ってみたい、と。
伊藤野枝の場合は、無政府主義者として無茶な活動をしたり、ムチャクチャな恋愛をしたりと、本当に自由で子供過ぎるのかもしれませんが(笑)。
しかし、今の社会は「子供であること」を許しません。予測不可能なものはすぐ予測可能なものに変える。いつ予測不可能なものが現れるか、常に怯えていて、現れたらすぐに新しいシステムに取り入れていく社会になっている。有用でないもの、予測不可能なものを常に封じていく。先程の話で言えば、無駄なおしゃべりを封じるような社会になっています。
「所有」の根源にある奴隷制
『負債論』で知られるデヴィッド・グレーバーが、面白いことを言っています。「所有権の前提になっているのは、奴隷制だ」というんです。
この所有という考え方が、様々な問題を生んでいる。グレーバーの所有の議論では、自分がそれを私的所有できると認められたら何に使ってもいい、ぶっ壊したっていい、それが所有権というんですが、普通そんなことはありえない。だって、ナイフ持っていたって、それで人を刺していいわけではありませんから。
しかしそのように、何かをどうとでも使っていい、という権利を認めたのが所有権です。グレーバーは、所有権とは明らかに「人が人を奴隷として家畜のように扱うようになったから生まれた」といいます。
では、奴隷とはなにかといえば、人でありながら人ではない存在です。たとえば戦争捕虜を殺さずに生かしてやった。だからオレの言うことを聴くのは当たり前だ、という発想です。奴隷が主人に逆らったならば、ムチを打ったって、殺したって構わない。どのように扱ってもいい存在として、生きる権利を奪い去っている状態が奴隷制です。
太古の時代の話に見えて、ほんの数百年前、いや、現代にも残っているのがこの奴隷制です。今の社会だって、よく見れば誰かが誰かの「奴隷」として、誰かのために生きています。恐ろしいのは、奴隷の側が、主人に生かしてもらっていると思って、主人のためにどれだけ役に立つかを考え始めてしまうことです。
自分の主人の所有物として、どれだけ価値があるのかを周りに示そうとしはじめてしまう。SNSのように、社会のために、何かに応答してしまう。何かの役に立ちたい! って。
現代の仕事の世界でも、まさに「奴隷労働」が当然になっているわけです。会社でみんな奴隷のようにこき使われているけれど、「カネを貰って生かしてもらっているんだから、ご主人様(会社)の役にたたないといけない」とがんじがらめに縛られている。
そういう気分を、大正時代のアナキスト、大杉栄は奴隷根性と呼びました。奴隷根性が染み付いてしまうと、もっと認められないと、役に立たないと、もっともっと……と過剰になってしまう。先程言った、相模原障害者施設殺傷事件の植松のようになってしまうわけです。
いかに役に立てるのかという考え方になることが息苦しい。なんども、なんども問いかけてみたいです。ほんとうにみんな奴隷でありたいのか? 奴隷であることが評価基準でいいのか? と。
どう考えてもおかしいんですけれど、それが、私たちの社会の今の実態なんです。でも、それってクソですよね。まずは、ただ一言だけ、叫んでみるといいんだと思います。チキショー!
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